”かずっちゃ”って誰だ

41歳で公務員を辞め、フリーランスに。17年の苦悩と自分の心に正直になるまで。

公務員を辞めフリーランスに

かずっちゃ(kazutcha01)です。

ぼくは、2018年3月31日をもって、いままで17年間地方公務員を退職しました。これからは会社に属することなく自分の旗を振って生きていきます。

世間では安泰・安定と言われる公務員。実際は、公務員でいることに17年間悩み続けました。

なぜ?

「一度きりの人生、自分の生きたいように生きたい」という思い。その根底には、「ぼくは会社に行って働くのはいやだ」と子供の頃から持っていた社会に対する違和感があります。

公務員っていう安定した職を捨てて何をしようとしているんだと思う人がほとんどでしょう。

ぼくは後悔していません。

いまやっている仕事、就職活動など、敷かれたレールを歩くことに少しでも違和感を感じているなら読んでみてください。

きっとあなたの気持ちを知るきっかけになるはずです。

●目次

はじめに

ぼくが歩いてきた人生はどこにでもある平凡な人生だと思っています。マンガの主人公のような見どころあるストーリーはありません。

普通の人間が普通に悩み、落ち込み、助けられ、這い上がってまた悩む。この繰り返しをしながら少しづつ成長していくストーリーです。

会社に就職することに疑問を持ちながら生き続け、自分の心に正直になる41歳までのストーリー。

だからこそ、いま会社への就職について、日本社会が抱えている矛盾について悩んでいる人に届くと思っています。

飽きやすい性格、イジメにもあった小学生

池田山で飛ぶパラグライダー

自然豊かな岐阜県で誕生

ぼくが産まれたのは1976年(昭和51年)。高度経済成長が終わりをむかえ、安定成長期に入った時代に岐阜県で生まれました。

近くは桜の名勝霞間ヶ溪があり、自然豊かな町です。

霞間ヶ溪

同じ地域には、最近有名になってきた天空の茶畑(岐阜のマチュピチュ)と呼ばれる絶景ポイントが最近では有名になってきました。

天空の茶畑

そんな自然豊かな岐阜県で父親は工場勤めのサラリーマン、母親は服飾の裁縫(いわゆる内職)で生計を立てていた普通の家で育っていきます。

実は、出自には大きな秘密があったんですが、それを知ったのは中学生のとき。

出生出生直後のぼく
幼年期亡き父の愛車と

飽きっぽい性格だった小学生。アダとなってイジメにもあう

熱しやすく冷めやすい性格(飽きっぽい)で、おもしろいと思ったことはすぐにハマっていたにも関わらず、飽きるとすぐに熱が冷めてしまい、何をやるにしても長続きしない性格でした。

この飽きっぽい性格が災いしたのか、6年生の時にイジメにあいました。理由は今でもよくわかりませんが、クラスのリーダー格が誘ってきた遊びを断ったからだと思ってます。

いきなりクラス全体を巻き込んで無視をするっていう陰湿なイジメを仕掛けてきました。

学校へ行っても仲が良かったグループからはツマはじき。先生も知っているけど見て見ぬフリ。今もよくある典型的なイジメのパターン。

ホントに辛かったですね。今でも思い出します。

そんな中でも光明はありました。全員が敵だと思っていた中、実は無視をしていたのはリーダー格がいたグループと一部の子だけで、そうじゃない子たちはみんな仲良くしてくれました。

グループだけが世界じゃないんだ!!

周りを見渡せば、他のグループ・世界があるんだ!と視野が広くなり、普通に生活できるようになりました。

結局1ヶ月ほどでリーダー格の子とは仲直りしたんですが、時期が修学旅行を挟んでいたんで、いちばん楽しいはずの旅行は最悪。はっきり言って小学校の思い出は無いに等しいです。

卒業式卒業式

ゲームとガンダムが支えだった。

ファミコン三昧ファミコン三昧だった小学生

そんなぼくが長い間ハマったのが、ゲームです。小学校3年生のときに親にせがんで買ってもらったファミコンは、毎日ソフトを変え、飽きることなくやり続けていました。

いとこ家にあった当時画期的な進化を遂げたパソコン、PC8801のゲームに衝撃を受け、これまた親にせがんで買ってもらい、ひたすら遊び続けていました。

そんな毎日を過ごしているうちに、なんとなくゲームを作る人になりたい!と思うようになり、卒業文集にまで書きました。

それくらいゲームが好きだったぼくは、ゲーム関係のテレビ番組をみてゲームをやって生活をしているプロ(名人)がいるんだっていう衝撃を受け、憧れをもつにまでなりました。

ゲームとは別に、ガンダムシリーズに見事にハマりました。ぼくが小学生だったころは初代ガンダムが再放送、Zガンダムがリアルタイムで放送されていた時代。

カッコ良さに夢中になってハマってました。実はガンダムがとても深いストーリーだと知ったのは中学生のとき(笑)

好きなことを仕事にしている人を見て感じた疑問

父は会社から帰ってくると疲れて寝てしまう日がほとんどで、好きなことをやって生きている人と比べてなんでこんなにしんどい思いをしているんだろうと、小学生ながら会社には行きたくないなって思うようになりました。

出自を聞いて荒れた中学生

修学旅行修学旅行

はねっかえりであたらしいモノ好きな中学生

いじめを克服し、好きなことで働くという生き方を目にしたぼくは、会社に行きたくないっていうマセた考えを持った中学生になった。

右へならえって言われてならうのが嫌いな、はねっかえりな中学生。

また、熱しやすく冷めやすい性格が転じてあたらしいモノ好きになり、新しくて面白そうなものにはすぐに飛びついていました。

勝ちたい、負けたくないっていう気持ちが幸いしたのか、部活でも勉強でも負けたくないという思いだけで部活も勉強もそこそこの成績は確保。

中体連の壮行会で、陸上部部長として全部活代表であいさつするくらいは頑張ってました。

出自を知って大荒れ

中2の夏でした。突然父親から夜に話があると言われ、何事かと聞きにいったところ、なんと、ぼくは本当の子供ではない。父の友人との約束で、子供の生まれない両親の代わりに生まれた時にもらうことになっていたという衝撃の事実。

びっくりした。そして悲しかった。

その後生活は荒れました。そりゃそうでしょう。本当の親だと思っていた両親が実は違ったなんて聞かされたら。

中2〜中3の春先までは、俗に言うヤンキーになってました。ちょっかいをかけてくる者みんな敵ぐらいの勢いで荒れました。

「このままじゃ、人生終わっちゃうぞ。実の両親じゃない?それがどうした。育ての親だろ!!」

なんて青春真っ盛りのセリフで立ち直らせてくれたのは、中3のときに出会った友人。今でも家族ぐるみの付き合いを続けています。

小学生のイジメに続き、ここでも2度目の立ち直りを見せました。

優しかった父は、残念ですがすでに亡くなっています。今でも厳しい母とは、家も近くて会うたびによく衝突しますが仲良くやっています。育ててくれたことにとても感謝しています。

ゲーム好きで遊びまわっていたが、現実を直視した

スーファミミニ本体スーパーファミコンで遊び倒した※画像はスーファミミニ

小学生の頃からハマっているゲームはあいかわらず続けていて、ゲーム好きとあたらしいモノ好きの集大成。中2の冬に発売されたスーパーファミコンを発売日その日に買い、遊びまくってました。

ですが、ネットも何もなかった当時、中卒の働く先といったら土木系の仕事に一直線。ヤンキーだった先輩がたどった末路、高校に行かないと即就職になるっていう現実を知った。

特別なスキルを持っているわけでもない中学生が遊んで暮らせるほど、世の中は甘くない。

これはまずい、ぼくが遊んで暮らすためには高校・大学に行かないといけないといけないんだって気づき、ちょっとだけ社会のことを考えるようになり、レールに乗ることを選びます。

自由に選ぶという考え方を知った高校時代

高3高3(自宅にて)

 

自由な校風の高校へ

無事、高校受験を終えて高校に進学をすることができました。

ぼくが通った高校は、文武両道をモットーに勉強をするもよし、部活に精を出すのもよしといった自分たちでやりたいことを決めて打ち込むといったスタイルで、当時の公立高校にしてはとても自由な雰囲気がある学校。

今思えば、この高校を選んで正解だった。

自分の責任で何をするかを決めて、そこに向かって進んでいくこと、そしてそれが違っていたら軌道修正してまた進んでいくということをしっかりと3年の間実行することができたからです。

またここで知り合った友人は、とても考え方や行動がとてもおもしろい人がとても多かった。

今では起業したりしてとても活躍しています。自然と交流は続き、今でも付き合いがあります。

自分の性格に気づいた

このようなとても自由な環境で生活して気づいたことがあります。ぼくは縛られることが嫌いなんだと。自分で考えて自分で行動していたい、と。

このことに気づいたのはとても大きかった。

好きなことをするために勉強する時間を工夫し、時間を作り始めました。この経験があるから、時間を管理することは今の歳になってもできています。

小学生から続けているゲームもあいかわらず続けていて、RPG(FFシリーズ)にハマってました。当時はFF5・6のころ。キャラクターの個性とキャラが織りなすストーリーが大好きで、惰性でもなんでもなく、ホントに楽しかったから続けていました。

インターネットとCGに出会った大学生

学生の街、京都の立命館大学へ

大学に通った4年間でぼくは大きな2つの出会いを果たした。

それは、インターネットとCG(コンピューターグラフィックス)

小中高と学生生活を過ごしてきて、社会への漠然とした疑問が大きくなり、自由に生きていきたいと考えるようになったぼくが、いよいよ大学にいくことになった。

大学に通うことで、自分が本当にやりたいことの手がかりが見つけられるんじゃないかという思いがとても強かったことを覚えている。

大学は立命館大学の経営学部。当時は学生の街とも言われた京都市にキャンパスがあり、大阪にも阪急電車1本で行ける「学生の街」にふさわしい、学生にとって環境のいい大学だった。

 やりたいことが見つからなかった3年半

成人式成人式

希望を持って大学へ入学したのはいいものの、やりたいことが簡単に見つかるはずもなかった。

情報の仕入先はテレビ、雑誌ぐらいしかなく、インターネット黎明期でもあった1995年から1997年は、今みたいにインターネット接続環境は整ってなくて、インターネットに繋ごうとしても下宿先には接続環境なし、大学の限られた場所にしか閲覧できる場所はなかった。

圧倒的に手にはいる情報量が足りなかったあのころ、自分の周りを見ることで精一杯。毎日を過ごすことしか考えずにただ日々が過ぎていった。

楽しみといえば、やはりゲームだった。初代PSが発売され、友人と遅くまで遊んでいる日がほとんど。

入学したころの気持ちはどこへやら、成長どころか退化していった2年半だった。

そんな生活の中でも、自分の意思で決めて動いたことはあった。

1回生のとき、親戚の葬儀で帰省したとき偶然会った東京の大学に行った中学校時代からの友人(立ち直るきっかけを与えてくれた友人)と偶然会い、その場のノリで東京に講義そっちのけで1ヶ月ほど遊びに行ったことです。

理由は、”面白そうだった”から。

同じ大学の友人には呆れられましたが、面白そうっていう理由だけでスッと体は動いた。この時期でいちばんおもしろかった出来事です。

自分の意思で、面白そうって感じたことを実行するのがとても楽しいと改めて思った瞬間だった。

この東京への居候がとても楽しくて、4年間ずっと続けていました。

行動力もこの頃からしっかりと鍛えられています。

デジタルハリウッドとの出会い、 インターネットとCG を学べる

3回生になったある日のことだった。

大学の友人がふと声をかけてくれたことにぼくはすぐに飛びついた。

お前、ゲームとかパソコン好きやん。今度デジタルハリウッドってCGやホームページとかの制作を教えてくれる専門学校の学長が公演に来るらしいで! 行かへん?」

こんなおもしろい偶然があるんだろうか。小学生からずっと好きだったゲームやホームページの作成を教えてくれる学校があるなんて!

学長(杉山知之さん 現デジタルハリウッド大学院、同大学学長、デジタルハリウッド学校長)の公演の内容はとても未来があった。

これからの時代、必ずインターネットは生活の一部になる。また、CG(コンピューターグラフィックス)技術はゲーム制作の要になると熱く語っていた。

即決!

コースはHTMLコースとCGコースの2種類あったが、ゲームを作りたいという小さいころからの夢をとって、CGコースに行くことを決めた。

一気に未来が明るくなった。

まさかの結末、卒業後の自分は

デジタルハリウッドの学舎は大阪の梅田にあった。

大学に通いながら、CGの勉強をすることになりとても大変な状況になったが、それでもぼくは生き生きとしていた。

3回生が終わり4回生になり、周りが就活をしている中、ぼくは一所懸命CGに打ち込んでいた。

UNIXの操作から始まり、CGソフトを使ってのモデルの作成。キャラクターを描くためのデッサンの勉強など、とても刺激的で楽しい時間だった。

ある程度扱えるようになってきたころ、その知らせはやってきた。

祖父の死

体が悪いことは知っていたが、老衰ということだった。

その知らせを受け、急いで帰省。葬儀のあとに親から言われた言葉が、

家に帰ってきなさい

泣けてきた。田舎特有の固定観念にとらわれた、固い思想の持ち主でもある両親。

今回のできごとで言われるかもというのは少し予想していたが、まさか本当になるとは・・・

少ない家計から学費を払ってもらっていた自分は言い返すことができず、夢半ばでデジタルハリウッドを休学 →  退学 した。

3たび敷かれたレールの上を歩くことになった。

就活していなかったツケ

就活をしていなかったぼくにとって、就職氷河期と言われた当時、募集時期もとうに終わっていたんで、中途半端に面接に行っても採用してくれる企業もなく、途方にくれていた。

そんな中、両親が地元の役場で日々雇用を募集してるから行ってみたら?

と誘いを受けた。公務員って固そうだしイヤだと渋るぼくを強引に面接に連れて行き、その結果は採用。

思わぬ結末が訪れた大学生活だった。

ただ、デジタルハリウッドとの出会いはとても感謝している。ゲームを作るにはどうすればいいのか右も左もわからなかったぼくが、制作過程を知ることができ、技術の一端を触ることができたのは、今とても役に立っている。

また、インターネットの可能性をここで知ることもできた。

この経験は、ぼくが今こうして職を辞してやろうとしていることへの大きな自信になっています。

役所の日々雇用職員として:22歳

日々雇用職員として役所に勤めることになって、ぼくは農政関係の部署で職員のお手伝いをすることになりました。

書類の整理や文書の推敲など職員の手がなかなか届かない仕事をこなすのがぼくの担当。職員のみなさんも親切でとても優しく接してくれました。

スノボツアー日々雇用職員時代のスノボツアー

 

何かを生み出す仕事じゃなく、法律や制度にのっとった中での仕事。生産性のある仕事とは遠くかけ離れた仕事。

これが公務員の仕事なんだ・・・

仕事がとても窮屈に感じていた。

仕事を始めてから2ヶ月くらい経っても、ぼくはまだデジハリで学んでいたCGを使った仕事を諦めていたわけじゃなかった。大学時代には色彩の勉強もしていたんで、それを生かした仕事もないものかとふと思いついたことがある。

アメリカへ渡ろう

アメリカの従兄弟とアメリカの従兄弟と

いとこがアメリカに住んでいたこともあり、そこを頼って自分でCGと色彩学プラス英語を勉強しよう。いとこの家なら親も安心するだろうとなんとなく思って実行しようと密かに計画を立てていた。

そんな矢先に、訪れた採用試験の話。

日々雇用職員という立場なんで、正職員ではない。つまり、採用試験を受けて合格しないと正職員にはなれない。

受けるだけ受けてみて、落ちたらアメリカに行こうと決めた。

試験の結果は・・・ 合格

平成12年度からの正式採用が決定しました。

なんの皮肉か、 IT推進 部署が初めの配属先:23歳〜25歳

正式に採用された最初の部署は、 IT推進 を行う「情報政策室」。

当時の役所のIT化は全く進んでおらず、5人に対して1〜2台の割り当てしかなく、当然インターネットも利用できない状況でした。

岐阜県内でいち早くIT化を実現したいという当時の首長の方針があり、その関係で作られた部署への配属。職員は室長とぼくの2名。2人でIT推進を実現するという大変なところだった。

職員になることで訪れた思わぬITとの関係。さすがにちょっと運命めいたものを感じました。

庁内LAN整備によるネット接続、1人1台パソコンを実現

IT推進

まずは、とにもかくにもインターネットに接続するための環境をつくらないといけない。上司の室長は当時40代後半だったんですが、パソコン、インターネットに関する知識と技術はハンパじゃなかった。

一緒に仕事をしていてわからないところや疑問に思ったことをすぐに答えてくれ、とても自分のスキルアップに繋がっていきました。

サーバーの構築から始まり、無線LANがなかった当時、庁舎内の床下にLANケーブルをはわせて職員の机まで持っていく。このときにHUB(ハブ)やルーターの仕組みをしっかりと学ぶことができた。

※今で言うところの ”IT土方” と呼ばれる職種

下地ができあがるまで約1年かかりました。ここからようやく職員1人に1台のパソコンの割り当てを行っていきました。

IPアドレスやサブネットマスク、DNSサーバーなどの仕組みも室長から直々に教えてもらいました。室長はホント、モンスター級の知識でした。

思っていた仕事とは少し違っていたけど、ハードの勉強を身をもって勉強することができたことは自分にとって財産になった。

地域住民へのIT講習会を開催

IT講習会

庁舎の整備が終わった後に、次に目を向けたのが住民。

住民の方にも、インターネットの素晴らしさを伝えようと室長と2人で企画・立案し、国の補助金をもらって1年間かけて町中を回ることになりました。

その根本にあったのが、ぼくがゲームを作る人になるためにどうやって学べばいいのかわからなかったという経験。

せっかくインターネットっていう便利なツールが使えるようになったのに、使い方をどこで教えてもらったらいいのかわからない人を少しでも減らしたいって思いが講習会をやることに繋がった。

世間はWindows98をのせたパソコンが日本中に広がり始め、自宅でもモデム回線ながらインターネットが使えるようになってきた時代だった。

やはり田舎の人でも興味があったのか、どの会場でも定員オーバーになるくらいの盛況ぶりでした。

参加者にはとても感謝されました。

でも、ぼくは心から笑うことができなかった。

参加者はインターネットを使えるようになった、WordやExcelを使えるようになったというように自分の目的を果たしている。

比べて、ぼくは自分のやりたいことが実現できていない。このギャップに苦しんで笑うことができなかった。

このときから退職を決めるまで、このことについてずっと悩み続けることになった。

結婚、実の姉との再会:26歳〜34歳

異動と結婚

心から笑えない状況に苦しめられるようになった翌年のこと。

定期異動があり、ぼくは今までいたIT関係の部署から土木系の部署、「建設課」へ配属されることになった。

今までいたクリエイティブな仕事とは真逆のインフラを整備していくための部署で、既存の道路や水路を維持したり、土地の境界を確認したりといった仕事がメインで、まさに土方系。

いちばん大きく変わったことが、住民のぼくらへの対応。

住民の身近な道路や水路などの話になってくると、やはり感謝より苦情で庁舎に来るケースが多く、態度のあまりの変わりように驚きっぱなし。

公務員の部署異動は頻繁にあることで、3年経つと異動の対象になるというのが慣例です。

役所へ行ったことのある方ならご存知だと思いますが、住民票を発行する戸籍、保険、税金の相談などの窓口業務もあれば、土木・水道などのインフラ整備を担当するなど、異動になるとほとんど転職と変わらないくらい業務内容が変わります。

ぼくはこの部署に9年間所属することになります。

苦情に耐える、自分が好きだったことからかけ離れた仕事をすることになったこの9年間は確実にぼくを精神的に追い込んでいきます。

そして、実の姉との出会いで心境に大きな変化をもたらします。

ぼくの大きな支えになってくれる妻と結婚

結婚式結婚式 ※顔出しNGなのでご容赦を

 

そんな苦しい状況のなか、ぼくは結婚しました。

相手は美容師で、飲み会で知り合ってそのまま結婚まで。

結婚して2年目に長男を授かり、その2年後には次男も授かりました。

嫁さんと子供たちにはとても助けられています。

なんとか9年間土木系の仕事をこなすことができたのも、新しくできた家庭というものがぼくを支えてくれる大きな柱になってくれたから。

実の姉との出会い

姉と一緒に

そんな折、実の姉と会う機会が訪れます。実の姉は『石原詢子』といって、演歌歌手をやっています。紅白にも1回出場した経歴の持ち主。

たまたま近隣の町にイベントで訪れることになり、会うことになりました。

会って思ったことは、やっぱり兄弟姉妹っていう感覚はありませんでした。代わりに、好きなことを仕事にしている姉に刺激を受けました。

姉の顔がとても生き生きとしていたことがとても印象的でした。

この出会いで、ぼくは心の奥底に沈んでいた縛られることが嫌・会社に行かずに仕事をしたいという気持ちが再び持ち上がってきました。

この出会いが、3度目の立ち直りになります。

公務員を辞める決意:35歳〜41歳

池田山にて撮影池田山にて撮影

再び土木系への異動

そして、ようやく訪れた異動先の部署は・・・ 上下水道を扱う「水道課」

目の前が真っ暗になりました。

土木一般を扱う建設課に引き続き、上下水道を扱う水道課への異動。

さすがにこたえました。

しかも、水道課の庁内でのうわさは「地獄の部署」として有名で、かなりきつい部署だということは知っていて、まさか自分が配属されることになるとは思いもしなかった。

この水道課が自分が配属された最後の部署になります。

配属後の仕事は、下水道施設の維持管理でした。

こういった下水道施設は、利用している人から料金をもらって維持管理をしています。当然支払いがとどこおる人もいるわけで、そういった人に対して未払いの料金を取りに行くと行った仕事も含まれます。

もう、入庁当初のIT推進といった未来のある仕事はどこへやら、どっぷり役所の仕事につかっている自分がいました。

最初にも言ったとおり、職員のみなさんは親切で優しい人が多いです。

ですが、ぼくはそろそろ限界でした。

心から笑えない自分、その理由が自分がやりたいことができない、達成していないこと。加えて、生産性のない役所の業務に嫌気がさしてきたこと。

この2つの気持ちは、IT関連部署から異動になったときからずっと育ってきたもの。

もっといえば小学生から持っていた縛られたくない、好きなことで仕事がしたいという思いが強くなったんでしょう。周りにも見えるくらい気持ちが出てしまっていたのかもしれません。

加えて、姉との出会いによる好きなことを仕事にしたいという気持ちの復活。

少しづつ職員の人たちとの意識のズレが、ひずみとなって表面化してきました。

出張先で偶然見つけた記事でブログの存在を知る

2015年11月は、公務員の界隈では地方創生で盛り上がっていました。

そんな中、出張へ向かう電車の中で地方創生を変わった形で擁護する記事を見かけました。

「地方消滅で行こう」という論調に対する強烈な違和感

イケハヤこと、イケダハヤトさんの記事です。地方創生を擁護する彼はどんな人なんだろう。という好奇心から、イケハヤさんの記事を読みあさりました。

『ブログで稼ぐ』っていうことをこのときはじめて知りました。こんな自由な生き方・稼ぎ方があるんだという衝撃を受け、ブログを始めようかなと思い始めた瞬間でした。

今思えば、ここがターニングポイント。

決定的な出来事。裏切りとパワハラ

そんな気持ちの変化が、仕事にも影響を及ぼしはじめ、同僚で仲間だと思っていた職員から過去にぼくが担当した工事でハメられる事件が起きました。

1歩間違えれば裁判というところまで行きました。なんとか表面化せずに事なきを得ましたが、決定的なダメージを食らいました。

さらに追い討ちをかけたのが、上司からのパワハラ。いい人が多かった職場ですが、その人はかなり特殊・時代錯誤な考え方の持ち主で、平気でパワハラをしてくる上司で有名でした。

あたりが悪く、水道課に異動に。

そこで標的にされたのが、気持ちが揺れていたぼく。重箱の隅を突くように書類や仕事に難癖をつけ、小学生かよ!と思うような徹底的な無視。挙げ句には機関銃のような陰口の拡散。

ここはドラマの現場かよ!!っていう典型的パワハラを食らいました。

辞める決心とプログラミング学習

もうこれ以上いても、職場に迷惑もかかるし何より自分が保たない。

加えて、家庭でも妻の独立起業に加えて、家庭の事情が表面化。

リスクは高いが、17年越しの夢を叶えるためのチャレンジをした方がいいんじゃないかという結論に達しました。

公務員を辞め、新しい世界へ。

ぼくが辞めた後に稼いでいくために勉強することを決意したのがプログラミング。

辞めるにしても、なんのスキルもなしに生きていけるほど世の中甘くない。

ワラにもすがる思いですぐにスキルが身につけることができると、たどり着いたプログラミングスクールがTech Academy(テックアカデミー)

辞める3ヶ月前からTech AcademyでフロントエンドとWebアプリケーションを学習。なんとかなるレベルまでは上がってきたと感じてます。

 

TechAcademyの無料体験

 

それこそ、小学生の頃からの長い間ゲームやPC、インターネットの分野で仕事ができると思った瞬間、目の前がパッと開けました。

ごあいさつ

拝啓

 

2018年3月31日をもって、私は17年間勤めてきた役所を辞めることになりました。

退職するにあたって、公務員時代にお世話になった皆様に改めて御礼を申し上げます。

 

思えば17年間、いろいろなことがありました。

面倒見の良い上司、厳しくも優しい先輩方、いつも側で支えてくれた同期。地方公務員の特色でもある地域とのふれあいを通してお世話になった住民の方々、とても感謝しています。

 

  • 公務員という職業と自分の性格との相性
  • 嫁さんが独立したことによる家庭への負担
  • 自分の人生を生きたいという気持ちの強さ

 

この3つがぼくが公務員を辞めることを決意した理由です。

 

人としてとても尊敬できる人が多い、いい職場だったと思っています。先にも述べましたが感謝もしきれないくらいです。

 

家庭の事情もありますが、自分の人生1度きり。せっかくなんで自分の人生を胸を張って後悔なく歩いていきたい。この気持ちを抑えることはぼくにはできなくなりました。

 

40歳を超え、家庭も持っているぼく。リスクは高いのは百も承知です。

 

理解のある家族には感謝の言葉もありません。また、気持ちよく新しい人生を送ることを応援してくれ、退職の挨拶したときに引き止めてくれた首長をはじめ職場の方々、応援してくれる友人にこの場を借りてお礼を申し上げます。

 

はじめてレールを外れて自分の人生を歩いていくことになります。新しい世界に期待8割、不安2割といったいまの気持ちです。

 

これから出会うみなさま、どうかよろしくお願いいたします。

 

2018年3月 吉日

公務員を退職することを決意した理由

池田山にて沈思黙考池田山にて沈思黙考

公務員という職に対する自分との相性

もともと、公務員を志望していたわけでもなく、親の勧めで試験を受けることになり、合格したことが公務員生活の始まりです。

就職氷河期でもあった1998年〜2000年、他の会社が内定しているわけでもなく、アメリカに行って色彩の勉強をしようと思っていた矢先の内定でした。

強い意思や信念があるわけでもなく公務員として働き始めた17年前から今まで、仕事が楽しいとは思えず、自分は公務員に果たして向いているのかということを考え続けてきました。

公務員の仕事を続けていくうちに、楽しみや喜びを見つけることができるだろう、いつかきっと仕事で笑える日が来ると信じて続けてきましたが、その疑問は年を追うごとに大きくなり、ここ最近ではその疑問に自分が潰されそうになるまでになってきました。

最後まで公務員の仕事が楽しい、自分に合っていると思うことができませんでした。

家庭という基盤の大切さに気づく

また、ちょうど1年ほど前になりますが、ぼくの嫁さんは美容師で長年の夢だった自分の店を持つことになりました。いわゆる起業家です。美容院に併設して、コワーキングスペースを作り運営しています。

嫁さんの仕事が軌道に乗りはじめるにつれ、家族と接する時間が目に見えて減ってきました。家庭、つまり子供(3人)を持っているぼくらにとって、この事実はとても重くのしかかってきました。具体的には、次男の精神的な不安定さからくる行動などです。

日々の疲れの蓄積によるぼくら両親のイライラ感の増加。全てが悪い方向へ向かっていきました。

そんな時に思い出したぼくの尊敬している上司に言われた言葉です。

何をするにしも家庭が基本だ。ここが壊れたら何もうまくいかないぞ。

ホント、そのとおりだと思えました。家庭という基盤が崩れると、どんなことをやるにしてもうまくいきません。今のままでは全ての基本である家庭が崩れてしまいそうでした。

だから、ぼくがなるべく家にいることで家庭という基盤を支えていくことが良い選択なんじゃないかと思うようになりました。

自分という人生を自身の力で生きていきたい

最後は、身勝手な理由に思われるかもしれませんが、自分の人生を生きたいという気持ちがとても強くなったことです。

小学生のころから、ぼくは会社に行って働くことについて疑問を持っていました。そんな生き方のどこが楽しいんだろうと。

中学・高校と歳を重ねるごとに、あたらしいモノ好き、縛られたくない気持ちが育ち、この歳になってもその気持ちは薄れることなく、むしろ強くなっていきました。

家庭の大切さに気づいたいま、一度きりの人生を自分の生きたいように生きてもいいんじゃないかと決心がつきました。

公務員を退職して何をするか

公務員を退職 して何をするのかといういことですが、やりたいことがありすぎて何から始めようかというくらい自由な気持ちになっています。

  • ブログ・SNSを使った情報発信
  • 嫁さんの美容院経営を手伝いながら、併設しているコワーキングスペースの運営
  • プログラミング技術を取得中なんで、技術を生かした仕事

まだまだありますが、いま楽しく取り組んでいるこの3つのことにとことん打ち込もうと思っています。

生き方に悩んでいる人へ

何回も挫折し、そのたびに立ち上がったぼくは、公務員を退職 して新しい世界へ飛び込みました。

ここまで見てもらったあなたならわかってもらえるはずです。ぼくは別に特別な経験をしたわけじゃありません。普通の家庭で育ち、普通に成長し、みんなと同じような悩みを抱えて生きてきました。

それでも別の道を選んで今こうやって生きています。

もちろん、妻をはじめ家族の支えがあってこそ今のぼくがあります。感謝を忘れずにこれから歩いていきます。

41歳で家庭を持っていると、周りからとてつもない反応が返ってきます。かなりきつい言葉をいただくこともありました。

それでもぼくは辞めることを選びました。

ぼくの尊敬している上司からの別の言葉を紹介します。

仕事も人生もゲームと同じだ。後悔することなく楽しめ。

今は退職されて悠々自適な生活を送っておられますが、現役時代はとても自由で奔放で仕事も人生も本当に楽しんでいる方でした。

誰もができることじゃないと思っていましたが、ぼくも公務員を辞めて新しいことにチャレンジすることを決め、これからの人生を考えると、とてもワクワクしています。後悔もしていません。

結局は、自分の気持ち・決断が大事だと思います。

悩んでいるなら、前に進もう。

最後に

はじめに書きましたが、ぼくの人生は山あり谷ありの人生ではないです。誰もが通るであろう道です。

その道の先が本当に望んでいるゴールなのか?

そのことを1歩立ち止まって考えてみてもいいんじゃないでしょうか。ぼくのように違う道を歩き続けて、気づいたときに道を変える。

人生はこの繰り返しだと思っています。何も考えずに今の道が正しい道だと思わないでください。

道が違うということをぼくは41歳で気づきました。ですが、ぼくより若い人はぼくが抱えているリスクより、はるかに少ないリスクで自分の道(人生)を自由に選ぶことができると思います。

ぼくでも決断することができたんです。思っているほど難しいことじゃありません。

この記事で、あなたの進みたい道が見えてくることを願っています。