かずっちゃ(kazutcha01)です。
プロフィールは13,000字を超えています。その記事を5話構成にして再編集しています。長すぎるわ!!と思ったあなたはこちらを読んでください。
それでも読みたい!!って思うあなたは全収録版をどうぞ。
41歳で公務員を辞め、フリーランスに。17年の苦悩と自分の心に正直になるまで。
ぼくは、2018年3月31日をもって、いままで17年間地方公務員を退職しました。これからは会社に属することなく自分の旗を振って生きていきます。
世間では安泰・安定と言われる公務員。実際は、公務員でいることに17年間悩み続けました。
なぜ?
「一度きりの人生、自分の生きたいように生きたい」という思い。その根底には、「ぼくは会社に行って働くのはいやだ」と子供の頃から持っていた社会に対する違和感があります。
公務員っていう安定した職を捨てて何をしようとしているんだと思う人がほとんどでしょう。
ぼくは後悔していません。
いまやっている仕事、就職活動など、敷かれたレールを歩くことに少しでも違和感を感じているなら読んでみてください。
きっとあなたの気持ちを知るきっかけになるはずです。
インターネットとCGに出会った大学生
学生の街、京都の立命館大学へ
大学に通った4年間でぼくは大きな2つの出会いを果たした。
それは、インターネットとCG(コンピューターグラフィックス)。
小中高と学生生活を過ごしてきて、社会への漠然とした疑問が大きくなり、自由に生きていきたいと考えるようになったぼくが、いよいよ大学にいくことになった。
大学に通うことで、自分が本当にやりたいことの手がかりが見つけられるんじゃないかという思いがとても強かったことを覚えている。
大学は立命館大学の経営学部。当時は学生の街とも言われた京都市にキャンパスがあり、大阪にも阪急電車1本で行ける「学生の街」にふさわしい、学生にとって環境のいい大学だった。
やりたいことが見つからなかった3年半
希望を持って大学へ入学したのはいいものの、やりたいことが簡単に見つかるはずもなかった。
情報の仕入先はテレビ、雑誌ぐらいしかなく、インターネット黎明期でもあった1995年から1997年は、今みたいにインターネット接続環境は整ってなくて、インターネットに繋ごうとしても下宿先には接続環境なし、大学の限られた場所にしか閲覧できる場所はなかった。
圧倒的に手にはいる情報量が足りなかったあのころ、自分の周りを見ることで精一杯。毎日を過ごすことしか考えずにただ日々が過ぎていった。
楽しみといえば、やはりゲームだった。初代PSが発売され、友人と遅くまで遊んでいる日がほとんど。
入学したころの気持ちはどこへやら、成長どころか退化していった2年半だった。
そんな生活の中でも、自分の意思で決めて動いたことはあった。
1回生のとき、親戚の葬儀で帰省したとき偶然会った東京の大学に行った中学校時代からの友人(立ち直るきっかけを与えてくれた友人)と偶然会い、その場のノリで東京に講義そっちのけで1ヶ月ほど遊びに行ったことです。
理由は、”面白そうだった”から。
同じ大学の友人には呆れられましたが、面白そうっていう理由だけでスッと体は動いた。この時期でいちばんおもしろかった出来事です。
自分の意思で、面白そうって感じたことを実行するのがとても楽しいと改めて思った瞬間だった。
この東京への居候がとても楽しくて、4年間ずっと続けていました。
行動力もこの頃からしっかりと鍛えられています。
デジタルハリウッドとの出会い、 インターネットとCG を学べる
3回生になったある日のことだった。
大学の友人がふと声をかけてくれたことにぼくはすぐに飛びついた。
「お前、ゲームとかパソコン好きやん。今度デジタルハリウッドってCGやホームページとかの制作を教えてくれる専門学校の学長が公演に来るらしいで! 行かへん?」
こんなおもしろい偶然があるんだろうか。小学生からずっと好きだったゲームやホームページの作成を教えてくれる学校があるなんて!
学長(杉山知之さん 現デジタルハリウッド大学院、同大学学長、デジタルハリウッド学校長)の公演の内容はとても未来があった。
これからの時代、必ずインターネットは生活の一部になる。また、CG(コンピューターグラフィックス)技術はゲーム制作の要になると熱く語っていた。
即決!
コースはHTMLコースとCGコースの2種類あったが、ゲームを作りたいという小さいころからの夢をとって、CGコースに行くことを決めた。
一気に未来が明るくなった。
まさかの結末、卒業後の自分は
デジタルハリウッドの学舎は大阪の梅田にあった。
大学に通いながら、CGの勉強をすることになりとても大変な状況になったが、それでもぼくは生き生きとしていた。
3回生が終わり4回生になり、周りが就活をしている中、ぼくは一所懸命CGに打ち込んでいた。
UNIXの操作から始まり、CGソフトを使ってのモデルの作成。キャラクターを描くためのデッサンの勉強など、とても刺激的で楽しい時間だった。
ある程度扱えるようになってきたころ、その知らせはやってきた。
祖父の死
体が悪いことは知っていたが、老衰ということだった。
その知らせを受け、急いで帰省。葬儀のあとに親から言われた言葉が、
家に帰ってきなさい
泣けてきた。田舎特有の固定観念にとらわれた、固い思想の持ち主でもある両親。
今回のできごとで言われるかもというのは少し予想していたが、まさか本当になるとは・・・
少ない家計から学費を払ってもらっていた自分は言い返すことができず、夢半ばでデジタルハリウッドを休学 → 退学 した。
3たび敷かれたレールの上を歩くことになった。
就活していなかったツケ
就活をしていなかったぼくにとって、就職氷河期と言われた当時、募集時期もとうに終わっていたんで、中途半端に面接に行っても採用してくれる企業もなく、途方にくれていた。
そんな中、両親が地元の役場で日々雇用を募集してるから行ってみたら?
と誘いを受けた。公務員って固そうだしイヤだと渋るぼくを強引に面接に連れて行き、その結果は採用。
思わぬ結末が訪れた大学生活だった。
ただ、デジタルハリウッドとの出会いはとても感謝している。ゲームを作るにはどうすればいいのか右も左もわからなかったぼくが、制作過程を知ることができ、技術の一端を触ることができたのは、今とても役に立っている。
また、インターネットの可能性をここで知ることもできた。
この経験は、ぼくが今こうして職を辞してやろうとしていることへの大きな自信になっています。